ピカソとフランコ

 

ゲルニカ物語―ピカソと現代史 (岩波新書)

ゲルニカ物語―ピカソと現代史 (岩波新書)

 
スペイン現代史 (岩波新書)

スペイン現代史 (岩波新書)

 スペイン(フランコ政権)は、第二次大戦には「中立」を貫いた(ドイツよりではあったが)。だからスペインの人にとって「この前の戦争」といえば「内戦」なのである。フランコ将軍は、ピカソより11歳年下。ピカソの没した(1973年)の2年後に亡くなっている。
 「ゲルニカ」は、1937年、パリで開かれた万国博覧会の「スペイン館」(フランコ反乱軍の攻撃にさらされた人民戦線内閣)のオーダーを受けて玄関に飾るための絵として描かれた。それまで、「政治的な絵」をかくことはほとんどせず、しかもこの頃のピカソは離婚問題に直面して鬱状態カトリックは離婚できないので、別居の上、不動産の譲渡と相当な額の養育費を払う義務を負わされた)。2年近く作品を発表していない中、ぼんやりと「モデルを相手に絵を描く画家」(自分と愛人をモチーフ)のプランを練っていたピカソの基に届いたバスクの古都、ゲルニカ無差別爆撃」のニュースが、彼の創作のスイッチを入れた。パーツを一つ一つ考案し、組み合わせるプロセスを写真家にドキュメンタリーが如く記録させ、「この絵はずっと育っていく」と断言したピカソ。内戦に勝利したフランコ政権への辛辣な批判が込められたこの絵は、フランスに侵攻したナチスの迫害を逃れるべく、イギリスを経てニューヨークの近代美術館にわたる。
 1973年まで92歳の長寿を得たピカソ。晩年、ベトナムで殺戮を行っている国が『ゲルニカ』を預かる資格はない。スペインに返すべきだ」という運動がアメリカ国内で盛り上がったとき、ピカソ本人は「確かにアメリカはひどいが、そんな議論ができるアメリカは、フランコのスペインよりははるかに自由だ」と言い切ったという。政権も、「ゲルニカ」をモチーフにした切手を作ったチェコからの郵便物の受け取りを拒否するなど、この絵を露骨に嫌ったが、政権末期に「爆撃」を認め(長い間、住民による「自爆」説をとっていた)、「和解」のシンボルとして「ゲルニカ」の帰郷を画策するも、ピカソは拒否。ピカソの没後2年後にフランコ将軍が亡くなり、彼の遺言によってスペインに王政が復活し、王の下の民主化が達成され、満を持して「ゲルニカ」は大西洋を渡るのだが、「どこに置くか」で各地の駆け引きが熱を帯びる・・・・現在は、画学生時代のピカソが通い、一時は館長も務めたマドリードプラド美術館にある。
 「スペイン」は一つではない。単なる地理的な区分だけでなく、身分、階層、宗教、それぞれに個性があり、ついたり離れたりを繰り返している国家である。「ピカソ」と「フランコ」という2人の巨人の目を通して、この国を、そして「ヨーロッパとは何か」を考えるのも悪くない。