立命館大学地理学科推薦内定者の課題図書(長いです)

場所の現象学―没場所性を越えて (ちくま学芸文庫)

場所の現象学―没場所性を越えて (ちくま学芸文庫)

 教え子が一人行くことになり、3日がかりで「格闘」した。
 一度読んだだけではさっぱりわからないので、久々に、ペンとノートを引っ張り出して読んだ。ぐちゃぐちゃにして、それを手掛かりに「レジュメ」にまとめたら、ようやく理解できた。ああ、そうそう。学生時代、こんな本の読み方したっけなぁ(たいがいゼミや「外書購読」の発表の前日に、泣きながら)としみじみと思い出した。
 もともとは、著者がカナダで書いた博士論文らしいのだが、教授陣の審査を突破するためなのか、言葉の定義と、事例紹介として延々と出てくる参考文献(それが哲学だったり記号論だったり、「星の王子様」だったりありとあらゆるものにわたる)の“鎧”をまとっているので、まともに付き合うと嫌になるが、それらをべりべりと外して、目次に沿ってノートに整理すると、いろいろ見えてくる。ちょうど、「ドングリを食べよう」という人が、皮をむいて灰汁を抜いていく作業のようなものである。
 この本のキーワードは「場所」(Place)である。同じ「場所」でも、そこにいる人、語る人、住む人によってイメージはいかようにも変化する。
方程式っぽく書くのならば、場所=空間×景観×その人の感じ方や思い入れの関数は、たとえ空間(それを示す範囲)や景観の要素が同じでも、人の想い入れの変数次第でいかようにも変わるという、至極当たり前のことを言っている。
 例えば、「皇居」を見た時、それに対する「場所観」は非常に多岐にわたると思う。ある人は「ランナーの聖地」だろうし、ある人には一般参賀天皇ご一家」かもしれないし、またある人には江戸城の面影をそこに見るかもしれない。リタイアしたサラリーマンにとっては「人生で一番輝いていた頃(皇居を見下ろすビルで働いていた)の想い出の地」かもしれないし、その会社の就職試験に落ちた学生から見れば、「見るのも嫌なトラウマの景色」なのかもしれないし、中に住んでいる皇族方から見れば、全く違った「場所」観があるだろう。このように、一つの「場所」を取り上げても、見る人によって思い浮かべるものや時代、見る視点(地上からか、ビルの中からか)なども違う。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、地理学者はそれを「東京都千代田区一丁目一番地」「東京のC.B.D」と、無味乾燥な枠(やモデル)の中に押し込めて、分かったような気になっていて、その定義は未来永劫変わらないと信じて疑わないと、筆者は批判する(確かに)。
 場所に対する抽象化、単純化の究極の形の一つに「数値化」がある。1990年代初頭、GPS衛星などを使って地上のありとあらゆる現象にxyzの座標軸を与え(緯度・経度・標高)、物理の運動公式を当てはめるかのごとくシミュレーションを施す手法が計量革命・数理地理学・空間情報科学としてもてはやされ始めた。都市の中である一定の条件にあてはまる「エリア」を抽出して(例えば老人の割合が大きい、貧困層が多いなど)、そこに施設や福祉を「最適に配置する」という作業は、「検索」と「置換」=「コピー&ペースト」の発想である。似たようなハコモノや「まちおこし」事業がそこかしこにペタペタと張り付けられ、塗り分けられた地図を見てあたかも問題の本質がわかったかのごとき議論が横行した(自分自身、それは嫌いではないが)。
 こうした流れに対して、本書をはじめとした人文主義地理学」(ヒューマニスティックジオグラフィー)が、パソコン嫌いの他の研究者の期待を一身に受けて最前線でケンカを売ってきた(ように見えた)。トレンドに敏感な学生達が「人文主義」をやたら熱く語っていたのを覚えている。哲学は苦手で(「現象学」は、哲学の方法論の一つ)、パソコンも得意でなかった評者は、どちらかに加担することはできなかったが、「場所に対する人の見方、感じ方の違い」をうまく説明する言葉がなくて、誰か偉い先生がひねり出した「まなざし」という奇妙なひらがな言葉は、デジタル派が振りかざす「レイヤ」だ「ポリゴン」だ「バッファ」だのIT暗号の前にはどうも見劣りがした。いずれにせよ、海の向こうから輸入された概念に熱を上げるエリート達の議論はどう聞いても「???」だったが、大学の枠を超えて、結構熱かったことは記憶している。「京都学派」なんて言葉が流行ったことがあったが、今の世代にもそれなりに受け継がれていると思う。
 今、デジタル地図を使った地理教材を作りつつ、融通の利かないコンピューターを相手にしながら「まちおこし」とか「地域ブランド化」といった話に首を突っ込んだり、「帰省」を繰り返したりする中で、この本を読み、「ああ、あの議論はこういうことだったのね」とようやく理解できるようになった。だから、18歳かそこらの読者がこれを読んで「さっぱりわからん」のは至極自然なことであるので心配しなくてよい。ただ、最低限理解してほしい筆者の主張は、「我々が立っているところは『座標』(Point)でもなく、アインシュタインが頭の中で定義でするような、伸縮自在な「空間」(Space)でもなく、血の通った「場所」なのだから、『モデル』にあてはめたり、『ラベル』(「扇状地」とか『インナーシティー』とか)をつけて満足してないで、もっと『人』の変数や価値観の多様性を重視して考えましょうね」というということである。

 もう一度整理すると・・・・。

(1)同じ条件におかれた「空間」も、人の見方によって様々な要 素を持った「場所」に変化する(どんな「場所」があるかは2章を、それの「測り方」については3章を読むべし)
(2)「場所」には「ホンモノでオリジナリティーを持つ場所(= 場所)」と、「ニセモノの、コピペで作られたような場所(=没場所)がある。現代社会は、「場所」が「没場所」よってどんどん侵略されているが、それを「いい」と思うか「悪い」と思うかは人それぞれであるし、良し悪しを評するのは地理学の仕事ではない。
(3)「没場所」への対抗手段として、特に行政は様々な手段を講 じているが、あまり効果はない。むしろよその「場所」のいいところだけを取ってきて植えつけることで逆に「没場所化」を加速させている面もある。現代の(メジャーな方の)地理学は、そうした過ちに対して鈍感だった上、「没場所」の増殖に加担している面も否定できない(事例は6章7章に)。そうなったら仕方がないかもしれないが、筆者としては、望むところではない。

  大学側は、「この本を読んで、自分が大学で研究したいテーマとどう関連付けていくかを述べよ」とお題を出している。さて検索等でこの記事にあたった内定者の諸君、ここから先は自分で考えなさい。くれぐれもこの長ったらしいレビューをコピペなんかしないように(笑)。
 とにかく、身の回りの「場所」(「ジモト」でも「トーキョー」でも何でもよい)を因数分解してみて、いろんなパターンでもう一度かけ合わせてみよう。「人間」の部分の変数をいろいろ変えてみて、あらゆる「解」を作りながら、計算の過程を楽しんでみよう。「答え」(=あるべき姿)は一つではないことがわかれば上等である。また、デジカメを持って「場所」や「没場所」を構成する要素を切り取ってみてはいかがだろうか。寒いけど。「書を捨てて、街に出よ」である。

 非常に歯ごたえのある、料理しづらい課題図書でした。
 「大学ってのは、結構厳しいところだよ」(でもそれを乗り越えると知的で面白いところだよ)という“洗礼”を授ける上でよい本だと思う。「内定者」はもとより、若い地理学徒は、ぜひこの本と「格闘」して欲しい。