日本のミシシッピ

富士川舟運遺聞―養珠院お万の方をめぐる人びと―

富士川舟運遺聞―養珠院お万の方をめぐる人びと―

 11月1日、富士市はお隣の富士川町を吸収合併します。富士川町は、今の富士川橋あたりの「岩淵」村が周辺の二村を合併して出来た町で、JRの富士川駅も、1970年まで「岩淵」駅だったそうです。この本は、そんな「岩淵」が、富士川を伝って山梨へ、更には北陸そして佐渡の金山までつながる日本の陸送の大動脈だった時代のお話です。

 大動脈を切り開いたのは、ほかならぬ徳川家康公。前半は彼が晩年に寵愛した側室、お万の方を中心に歴史ドラマ風に綴られます。金山の鉱山師として家康に使え、佐渡金山の金を駿府に送ろうと画策した謎の金庫番大久保長安、お万の方を後ろ盾に、富士川を切り開いた身延山久遠寺、京都の大商人角倉了以など、日本史の教科書ではかなりマニアックな部類に入ると思いますが、昨年(2007年)は、この日本縦断のプロジェクトが開通してから丸400周年だったそうです。

 甲斐、信濃一円の年貢米が富士川を下り、岩淵から陸揚げ、蒲原の宿から海に出て、江尻(清水)の港で大型船に乗せて一路江戸へ。上りは塩や生活物資が富士川を上ったそうです。
 明治になり、年貢制度が廃止され、岩淵は一時的に廃れますが、新規参入自由化となって船会社が乱立、中央線の八王子―甲府間が開通する明治22年(奇しくも東海道線の“岩淵駅”は同年開業)までは、東京および関西から山梨・長野方面に向かう旅客・物流に大動脈として、更に富士周辺で本格的に始まった製紙(洋紙)の原料として切り出された材木の「いかだ流し」の終着点として、「河港・岩淵」は最全盛期を迎えます。「飛行艇」と呼ばれたプロペラ式翼船まであったとか。規模こそ違えど、南から北へ、北から南へ、富士川は「日本のミシシッピ」であり、岩淵は「日本のニューオーリンズ」だったのです。やがて山梨は東京、名古屋と直結して富士川の水運の価値は落ち、富士川沿いを走る「身延線」の全通でその役割を終えます。

地元史に“!”を見出せた一冊。「富士川町」は、なかなかに深いですぞ。

富士市図書館 郷土コーナー 請求記号:C683